ゑり善ではお店に足を運んでくださるお客様を大切にしながら、風呂敷包みの反物を担いでご自宅を訪問する商いも続けています。昔ながらの古いやり方ではありますが、箪笥の中まできちんと把握することで、お客様の着物生活により深く寄り添うことができるからです。
お客様とのおつきあいは、新しい着物をお買い上げいただくだけではありません。コーディネートのアドバイスや、傷んだ着物の修理や仕立て直し、色変えなどをお引き受けし、一枚いちまいを長くご愛用いただけるよう細やかに提案しています。
なかには、お祖母さまの時代にゑり善でお求めいただいた着物を、お孫さんがお召しになるのをお手伝いすることも。そんなときは、お客様とその着物の、そしてゑり善とのありがたいご縁を感じずにはいられません。
ゑり善が代々大切にしてきた言葉に「正商(せいしょう)」があります。お客様に真っ当なお品やサービスを、正しい価格でお届けする商いのことです。
どんなに時代が変わってもそれだけは変わることがないように。ゑり善は、正直な商いでお客様に寄り添い続けてまいります。
「ゑり善好み」と呼ばれる品々を取り揃えて
不思議なことですが、吟味を重ねて取り揃えた品々はどこかが共通しており、同じ匂いを持つようです。それらが長年かけて店らしさの象徴となり、いつのまにか「ゑり善好み」と呼ばれるようになりました。品揃えに関するこだわりは大きく6つ。より「質が高い」もので、より「品格」があり、より「シンプル」なもの。そして「現代性」があり、「適正な価格」であること。またそれらの「バランスがよいもの」を選んでいます。
取り扱う品々はお客様のお顔を思い浮かべながら選びますので、これらはお客様とのやりとりから生まれた「好み」でもあります。「ゑり善好み」といいつつ、実のところは「ゑり善のお客様の好み」なのです。
半襟専門から呉服の店へ 〜戦前のゑり善
本能寺の変の2年後にあたる天正12年(1584年)、京染屋として創業した当店は、のちに半襟や和装小物を商うようになりました。
屋号は、半襟の「ゑり」と創業者山﨑善助の「善」に由来しています。
明治時代にはかなり繁盛していたようで、夏目漱石の日記(明治42年10月16日)や、幸田露伴の『辻浄瑠璃』にもゑり善の名が登場しています。
大正から昭和の初期にかけては精緻で贅を尽くした半襟が人気を集め、ゑり善の半襟は京都のみならず全国各地の方からもお買い求めいただいていたようです。
戦後の着物の着付けは襟元を広く開かないものが主流となり、半襟の需要は絢爛な装飾がほどこされたものから白色無地のものへと移りました。大正から昭和初期にかけて高い技術を誇った半襟の刺繍職人の多くはこの時期に引退しました。
ゑり善の取り扱い商品も半襟をはじめとする和装小物から、その伝統的な技術・技法を活かした着物や帯などが主流となり、「ゑり善好み」として広く知られるようになりました。
老舗企業として挑戦を続ける 〜戦後のゑり善
物資不足と戦争協力のため事業ができず戦時中は休業状態となっていたゑり善ですが、戦後になり再出発を果たします。
戦地より戻った関係者が集まり、昭和22年に「株式会社ゑり善」を設立。戦前にゑり善店主を勤めていた亀井辰次郎が、請われて社長に就任しました。
当時着物は貴重品であったため、ゑり善の品は日本各地から求められるようになります。行商が多かったこともあり、4年後には東京の本郷に出張所を開設。昭和32年にはご縁あって、銀座すずらん通りに東京店を開店しました。
一方、辰次郎は戦後まもなく結成された商店連盟の幹事長に就任。その後20年にわたって世の小売店のために奮闘を続け、ときどきの困難な時勢を切り抜けながら中小企業の繁栄に身を捧げました。
昭和・平成の時代を経て令和の現在、ゑり善は、辰次郎の娘婿や息子、孫、ひ孫が順々にバトンをつなぎ、社員とともにお客様とのつながりを変わらず大切に育んでいます。
令和4年には銀座店を移転開業し、東京の新しい和文化発信地としての活動も始めました。
天正期に産声をあげて400年余りの月日が過ぎましたが、お客様への想いは今も昔も変わりません。今後もゑり善は、「正商」の信念を大切に、お客様のため、和の文化のために、挑戦を続けてまいります。
ゑり善の創業は430年以上昔、天正12年(1584年)に遡ります。
以来、お客さまに最もご満足していただける品の提供と、お客さまの心に響くサービスを目指してまいりました。
今後もこうした「ゑり善の心」を大切にしつつ、時代と共に移り変わるお客さまのニーズに敏感な企業であり続けます。